手考足思

日々かんじることを綴ったもの

知らないし、できないこと

先週から長野県のある財団法人で8ヶ月間の自然農法研修に参加している。
今週から少しずつ作業が始まり、昨日は用水路の溝掃除、今日は育苗用のビニールハウスの張り替えをした。

私の父は米農家だったが、私が幼い頃に両親が離婚し私は母についていったため、父が仕事をしている姿は残念ながらほとんど記憶にない。覚えているのは父パチンコから帰ってこず母激怒という構図。
ただ、においの記憶だけがやたらあることに研修が始まってから気がついた。

ハウスの中の焼けたような土ぼこりのにおい。
ヤニのしみついた軽トラのにおい。
ライスセンターの米ぬかと、米をいれる紙袋のにおい。
お父さんの泥だらけの作業着のにおい。

でも、それだけといえばそれだけで、私は人生の多くの時間を農業が営まれている環境の外で過ごしてきた。だからおそらく多くの同年代、もしくは東京でサラリーマンをしている人と同じように、農業は自分にとって決して心理的距離が近いものではなかった(実際、研修が始まった今も、本格的に就農するかどうかは決めていない)。

ただ、今の私が何よりも面白みを感じているのは、農業には自分が「知らないし、できない」ということが山ほどあるという事実、そして、高校・大学時代の選択が巡り巡っていま、自分の糧になろうとしている実感である。

農業は一般的にはpracticalといえるものだけれど、私がお世話になっているのは研究機関であり、生態系や植物生理といったscienceの講義もある。ここが特に好ましい。
なぜなら、科学の裏付けがあることで、自然農法や有機農法につきまとう思想的な要素を出来る限り排除できるから。有機だったら諸手を上げてすべてよしみたいな盲目的な態度は好きじゃないし、宇宙の循環がどうのこうのみたいな話(大宇宙理論とでも名付けよう)も今のところ私は必要としていないので、近代科学を論拠として自然農法を学ぶのが、今の私にはいちばんすっと腹落ちする。

そういうような心持ちで日々過ごしているので、今になってやっと、光合成の化学式やカルビン・ベンソン回路を学んだ意味を実感している。仮に私が大学で植物遺伝学を専攻していなかったとしたら(さらに遡って高校で苦手な理系に進むという選択をしていなかったら)、多分こういう姿勢にはなっていなかったと思う。

また、今は知らないこと、できないことが山ほどあるので、1つ作業を行うにつけ「なぜそのようにするのか?」「こういうふうにする意味はどこにあるんだろう?」という疑問がいくつも湧いてくる。これはおそらく、前職でコンサルチームにいたことが大きく影響している。元々の素養もあるかもしれないが、コンサルチームに入ってから、あらゆることにおいて「意味」を考えるようになった。意味にとらわれるあまり身動きできなくなることもあって、先輩に考え過ぎと指摘されたこともあるけれど。

こうして見ると、途中さまざまに枝分かれしながらも、すべての経験がつながっているように思う(それでいくと大宇宙理論もうなづけるところはある)。
そこに更に、生まれ持ったものや感性など、自分の持てるすべての要素をつなげて、他の誰でもない、私自身の生き方をつくっていきたい。