手考足思

日々かんじることを綴ったもの

打算のないやさしさ

打算のないやさしさをもつ友人がいる。
 
以前勤めていた会社の同僚(シンガポール人)で、彼に初めて会ったときのことはもうよく覚えていないけれど、繰り返し思い出す一つの場面がある。
 
出張で訪れた深圳のある巨大工場の敷地を二人で歩いていたときのこと。
喉が渇いたので水を買いたいと言うと、彼は売店でミネラルウォーターを買い、ふたを開けてわたしに手渡してくれた。
 
彼がその動作をごく自然にやっていることに、わたしはとてもびっくりした。
仮にわたしがふたを開けるのにてこずっていたのであれば、手を差し伸べてくれる人も多かろうが、彼は最初からふたを開けて飲みやすいようにして渡してくれたのだ。
 
些細といえば些細なこの出来事の、一体何に自分はそんなにも心を動かされたのかを考えてみると、たぶん、そこにいやらしさや打算めいたものが微塵も感じられなかったことだろうと思う。
ふたを開けて渡すという動作があまりに自然(無意識的)で、ペットボトルのふたを開けるのは女性に対してだからかもしれないけれど、でもそれは一つの例であって、相手が誰であってもきっとそのように気を使うのだろうという再現性を感じたから。
 
折に触れて彼にこの話をするのだけれど、そんなの全然普通だよ(取るに足らない)と言う。
でもわたしにとってそれは特別なことだ。
 
だって、自分が気に入った人にやさしくするのは普通だけれど、誰に対しても同じようにやさしくあるというのは、誰にでもできることではないから。
彼とは一緒に仕事をしていく中で仲良くなっていったけれど、あのときはまだ、お互いの関係性はそこまで出来ていなかった頃だと思う。
 
彼と一緒にいると、こういう気遣いにあちこちで出くわす。自分の気持ちよりも、相手の気持ちを優先していると感じる。
それを「優柔不断」とか「頼りない」とかって感じる人もいようが、わたしにとっては尊敬に値する。