手考足思

日々かんじることを綴ったもの

動物存在としての人間の生き方

京都、岡山、鳥取を旅していろいろなものを見、そして考えた。
 
特にわたしをインスパイアしたもの。
 
●フレル食堂
●ソメヤスズキ
●長屋(そして谷崎潤一郎の「陰影礼賛」)
●木工
蒜山耕藝
●タルマーリー
●自然栽培
●旅で出会った素敵な人びと
 
 
これまでの30年間、わたしは他人の物差しにとらわれてばかりいた。
大学選びも、就職も、転職も、すべて誰かに一定の評価をされることをよしとして、生きてきた。
 
最近、それに対してくすぶった思いがあったのだけれど、なかなか体系立てて考えたり、どうありたいかを言語化することができていなかった。
でも旅をへていま、自分の納得できることばで思いを表現することができそうだ。
 
まず、人の役に立とうとか、母ちゃんのためにとか、べつに思わなくていい。
それはわたしにとって本心ではないから。
本心ではないから、ときにそれらはひるがえって言い訳になる。
そういうのがとてもとても、いやである。
 
わたしが大事にしたいのは、自分自身と、わたしの周りにいて、わたしにかまってくれる人たち。
でもやっぱり、自分自身がいちばんはじめにくる。
なぜなら、わたしの人生をいきているのは、他のだれでもない、わたし自身だから。
 
こんな考えは自分勝手かしら、わがままな心もちなのかしら、とかんがえもしたのだけれど、わがままというのともちょっとちがうように思う。
一日一日、一分、一秒、すこしずつ短くなってゆくろうそくのような自分のいのちを、すべて、燃やし切りたい。
それはきっとだれだって一緒。
その方法がみんなちがうだけだ。
 
では、どうやっていのちの灯火を燃やしてゆくのか?
いまいちばんしっくりくるのは、朝起きてから寝るまでに自分に必要なものを、できるかぎり自分で「こしらえる」こと。
それはできるかぎり、環境(広い意味で)を汚さない、無理・無駄のないやり方で。
これを「動物存在としての人間の生き方」とでも名付けたい。
 
都会にくらしていると自分の感覚が鈍っていくことをものすごく感じる。
極限まで鈍っていって、いつかなくなってしまうのではないか、と不安に思う。
 
たとえばこの前こんなことを思った。
 
旬のものを食べようとか、秋の味覚、とかよく言うけど、なんだか旬という言葉が一人歩きして、マーケティングツール化している(きもちわるいなぁ、と思う)。
 
そもそも「旬」ってどういう意味だろう?ていうか、たべものの持つ味を、わたしはちゃんと知っているのかしら?
 
たとえば衣料品の量販店を見るたび思う。
 
なんでこんなにいっぱい(どこにでも)店舗があるのかしら?
だれがここで服を買うのだろう?
あんなにいっぱい置いておく必要がどうしてあるのかな?
(決して衣料品量販店で服を買うことを非難する訳ではないのだけれど、ただ、消費者は自分が消費するものがどのように作られているかに思いを馳せるすべきだとも思う)
 
そういうことをかんがえていると、最終的にはいつも、ここに行き着く。
 
(わたしにとって)いきるってどういうことなんだろう?
なんのためにいきているのだろう?
 
思えばこの問い、ここ数年ずっとかんがえていた。
かんがえるというか、ちいさな違和感やこころのなかに「?」を感じていたように思う。
 
けれどもそのちいさな違和感を見過して、きちんと考えること、違和感を言語化することすらせず、「なんとなくそれっぽい」答えを場面場面ででっちあげて、今に至っている。
 
一度転職したのでお客さんや業態の異なる仕事を2つ経験したけれど、今もって「なぜその仕事をする(した)のか?」に対して、こうと言える答えがない。
建前はもちろんある。けれど、それは本質でないと自分でわかっている。
 
本質でないと自分でわかっているから身が入らない。
でも優等生的に振る舞うのは得意だから、なんとなくできるふうに見せたり、たまに自分の興味の向く仕事に出会ったりすると、そこだけがんばってみたりするけれど、見る人が見れば、こいつ基本手抜いてるなっていうのはわかっちゃうし、なにより結局自分のこころに「?」は残ったままだ。
 
これはなにより、わたしにお金を与えてくれる人に失礼である。
失礼なことはしたくない。
だって人はつながりの中で生きているから。
 
そう考えるとやはりわたしは、今やりたいこと(というより、ありたい姿)である「動物存在としての人間の生き方」を実践しようと改めて思う。
今の時代、お金を稼ごうと思ったら方法はいっぱいある(稼ぐ多少を問わなければ)。
だから、「メイクマネー・ファースト」になる必要もない。
これが敗戦後の日本だったら話は別かもしれないけれど、父祖が築いてくれた社会システム、インフラ基盤、社会通念倫理観といったものが今はベースにあるから、それを活用すればいい。
 
でも、バブルの遺産はいらないし、逆にいま足りていないものもある。
そういう、自分に取っての要不要を自分なりにきちんと峻別・吟味・取捨選択をして、未来を描いて生きたいと思う。
 
具体的にやりたいこと。
 
・自然栽培の農業
・農産物の味わいを生かした料理
・陶芸と木工
・着物づくり
 
これらを「うつくしく」やりたい。
野暮ったくなりがちなこれらのものを洗練し、人口に膾炙する手助けをしてくれるのが、デザインのちから。
ただどうも、わたしがやるときわめて簡素かつクソまじめに仕上がるきらいがあるので、いいかんじに肩の力がぬけて、あたたかみ(笑い)のエッセンスを添えられるデザイナーがいてくれたらいいな、と思う。
 
おわり。